2020.05.08更新
◉ 森田さんより
「学校」は、最も惰性の強い制度の一つとも言われます。つまり学校は、ほんの少しずつしか変わっていかないのです。それは、学校という制度の重要な性質でもあり、同時に、学びの可能性に対する想像力をこれまで制約する大きな要因にもなってきました。いまにわかに、その「学校」という制度が、一時的にとはいえ、機能停止に近い状態になってしまいました。全国各地で休校が続き、僕たちは仕事に、家事に追われながら、学びとは何か、子どもにとっての「不要不急」とは何か、学校に行くのとは別の形で学びを育んでいくにはどうするばいいのかといった根本的な問いを、真剣に考え抜かなければならない状況に投げ込まれています。僕も含めて、誰もが答えの見えない暗中模索の状況ではないかと思います。そこで僕の頭にまっさきに思い浮かんだのは、高知県土佐町で新たな学びの場づくりしている瀬戸昌宣さんが、学校外での多様な学びを支える場所として今年立ち上げた「i.Dare(イデア)」という教育プログラムのことです。僕は今年そこで学ぶ子どもたちのもとを訪ね、彼らの学ぶ姿を見ながら、本当に大きな刺激をもらいました。詳しくは当日、瀬戸さんにもお話してもらう予定ですが、一言でいえば、「学ぶことと生きることが直結しているとき、人はこんなにもいきいきと集中力を発揮できるのか!」と、あらためてハッとさせられたのです。瀬戸昌宣さんは教育(という言葉を本人はあまり使われませんが)の実践家として僕が最もリスペクトしている一人です。彼は何年も前から一貫して「学校」という枠組みにとらわれない学びの可能性を追求してきました。「学校」という枠が本当に一時的に取り払われてしまったいまは、学びの可能性をラディカルに再考するまたとない機会でもあります。このタイミングでぜひ瀬戸さんを囲んで、学びの未来、学びの可能性について、語り合いたいと考えました。僕は瀬戸さんと話すたびに、正しい答えを与えてもらうというよりも、考えるための新しいきっかけ、自分の力で考えてみようというふつふつとした意欲をもらいます。今回の「座談会」もまた、子どもや学びにかかわるすべてのみなさんとともに、考えること、学ぶことの喜びを再発見していくことができるような、新鮮な驚きと発見にみちた時間になればと、心から願っています。
◉ 瀬戸さんより
わたしたちはさまざまなことを諦めざるを得ない状況に突如として置かれました。義務だと思っていた通学がなくなり、ふと立ち止まる。子どもは「なぜ学校にいくのだろう?」と問い、保護者は「学校になにを求めているのだろう?」と自問する機会となったと思います。与えられた学習権と課された教育義務。その意味について考えずに過ごした日々から、その意味と向き合わざるをえない日々の中で、学びの意味についてそれぞれ考えたのではないかと思います。「教育を受ける」「学ぶ」を学校がない状態でどのように達成すれば良いのか。多くの人々が悩みさまざまなリソースを探し求めたことと思います。既に存在する教育サービスの多種多様さに驚きすぐさま子どもに提供したかたもいるでしょうし、遠隔授業で子どもの学びを保障しようと奮闘する学校教員の熱意に感動されたかたもいると思います。ここ何十年と見られなかった教育の大きなムーブメントが今起きています。そのある種の熱狂を感じ歓迎しつつも、やはりいつもの引っかかりが心に残ります。「教育すること、育てることに一生懸命になりすぎではないだろうか?」そもそも、だれかを教育したり育てたりは、本質的にできることなのでしょうか?そう思うのは教育する側・育てる側のちょっとした勘違いなのではないか、そのような枠組みはそもそもいらないのではないかと、三人いるわたしの子どもたちを毎日見ていて思います。わたしは「ひとは育つ」と思います。ひとりひとりのタイミングで,ひとりひとりの育ちをするのだと思います。その育ちを促すのはわたしたちが干渉することではなく、環境をととのえることだと思います。生きる、あそぶ、まなぶが一続きの「ひとが育つ環境をととのえる」とはどういうことか。わたしの日々の試行錯誤を皆様にお伝えし、皆様の心に今はない気付きが生まれることを願っております。